昭和46年02月07日 特別奉修委員
向かなければね、くぼみには到達しませんよ、信心それは例えば、もうご利益とかおかげとかという信心をそこに結びつけとる人の信心は、もう絶対伸びませんです、そしてから、反対なほうに向いてますから、今朝の御理解じゃないけれども、年を取るに従って寂しゅうなりますね、喜びがいわゆる、なんと言うでしょうかね、いわゆるその分かってはおるけれども湧いてくる喜びには触れることは出来ません、もうこれは絶対のものですからね、お互いここには信心の稽古に来るところと仰る。
稽古に来るその焦点をね、本当な所に置かなければいけません。今日の皆さんのあの体験発表を色々と聞かせて頂いとって、私は一番素晴らしかったのは幹三郎の体験だと思いますね、もうそれは実にたどたどしいね、お話でしたけれどもう信心の一番大事な所に触れていきよりますね、例えば朝親先生と一緒に午前3:30にここに出てくると言う事について、これはもう修行生がたまがられるといつもあちらでされますからね、もう何をあんなに一生懸命と色々願い御座るじゃろうかいうごと、あのお床上でね。
どうぞ明日あの有り難い目覚まし、有り難いというか、まあ自分目覚ましのおかげを頂くように問いうて願うとこういうておりますが、それけんちいうて、一つもすがすがしいち言う事はなかち、やっぱり眠たいんだとこうね、けれどもね、やはり親先生のお供をさせて頂いてから、あのあそこに出らせて頂いておかげを頂いておるという。なんともなしに分かっていくもんといっておりますよね、何とはなしに分かっていく、それが先生が先程からが言われます様に、信心は理屈ではないといわれることがね。
そのこれに感じ取られていきよると言う事、まあいろんなそのどうして表現しようかと思うて一生懸命ながらの感じが私は感じ取られたんですけれどもね、あの、確かに信心は理屈ではない、それはね、理屈ではない、その、有難いものが何とはなしに感じられよると言う事が素晴らしいでしょう、これをいただかにゃん、これを願わにゃならんというものではなくて、願う事は、ただもう、朝の親先生の一緒に起こして頂くということだけが一生懸命願いよる。
だからねいろんな信心でも、焦点を間違えたら、20年、30年信心をしても同じことですよなぜかって、久留米行きの方に向かって吉井の方に行ったっちゃ絶対久留米には到達しませんよ、結局信心はしよるけれども、何十年たってもおかげは頂いて有難いけれどもね、けれども何とはなしに、年を取って行くに従って淋しゅうなる。私はあの毎日幹三郎のことじゃないですけれども、三十分間あそこでこう、私はこっちに座る、幹三郎は向こうに座って三十分間ジーとこうしとるが。
何を思い何を考えよるじゃろうかと思うて胸が熱くなる思いが致します、御結界なんかにも奉仕させますとですね、私がここへ着きますともう、皆はもうすぐ私はここに着きますから立っていきますね、ところが幹三郎はなかなか立たんのです、しばらく何を考えよるか知らんけれどですね、何を思いよるか知らんけれど、まあ本当に取り次ぎ者という者はあげなからにゃいかんもんだろうか、何も思いよる風じゃなかけれどですたいね、もういっちょんそん変わり気張ったところもないですね。
もうたんたんとして、もうここに親先生が座ったけんすっと立つのじゃなくて、もうしばらくこっちがたっていいよち、言いよかと思うばってん、折角楽し、楽しそうちいうもんはない、ただ何とはなしにただ座ってるんです、そう言う事がどう言う事かというと、今日話したあの人がいうその、理屈ではないものが分かっていきよるのじゃないでしょうか、信心はもう理屈で分かるんじゃない、もう本当に本当の信心をそこに分かっていく楽しみ喜びというものが、しかもそれは決して生易しいものではない。
やっぱり眠くて、眠くて眠いどんなに朝、どんなに寝が気に明日もどうぞ気分よう、目覚ましのおかげを頂きますようにと願うてもやっぱり眠たいという、けれどもやっぱり願わなければおられん、願わんでもそこんところを願うて行くね、しかしその自分の子どものことを言うてはおかしいですけれどもね、皆さんそれぞれにすばらしい体験を発表をされましたけれども、言わば幹三郎があのたどたどしゅう言葉の中から言おうとしておること、それから言うておることを言おうとしておることをですね。
こちらで組み取らせて頂いておもうのにです、アー言う信心で進んで行けば、もう絶対年をとるに従って有り難うなってくること間違いない、お徳を受けることも間違いない、そんな風に思いますね。焦点を間違えたら行けませんよ、久留米行きならさっち久留米行きの方に向きを変えとかなきゃね、それはやっぱり吉井行きの方にどんなに考えがいっとたっちゃ、いつまで立ったちゃ本なところに到達しません。神様も教えてから教えがいがなかろう。おかげのやりがいがなかろう。
どうぞ。